2013年1月28日 スケジュール

 

淺川和也「平和へのアドボカシー:信頼の回復が教育にできるか」

 1999年の「ハーグ平和アピール市民会議」の後に、平和教育地球キャンペーンは世界各地で平和教育を促進させるために運動を進めてきた。世界の平和教育と日本の平和教育をつないでいくことができるのではないかと考えている。配布資料に平和教育地球キャンペーンの紹介がある。

  昨年夏に、IIPEInternational Institute on Peace Education 国際平和教育研究集会)が日本で開催された。世界各地から集まった参加者が1週間合宿をして平和教育について研修をするこの会のために16か国から約30名が埼玉県の国立女性教育会館に集った。日本の前はコロンビアで開催された。IIPEは今年はプエルトリコで開催される。プログラムはすべて英語で実施されるので参加は限られるが。GCPEJのホームページでも日本語で情報が掲載されている。

  私が広島に立ち寄る機会ができたことをきっかけに、同じような研修会が広島にあったらよいのではないかということで、このパネルディスカッションの企画が立ち上がった。パネリストが男性ばかりでジェンダーバランスが悪いが、会場の方は女性が多い。今後の発展を期待する。

 平和教育は広い分野を含んでいる。ユネスコが提唱するESD(持続可能な開発教育)の中には環境・社会・経済の3つの領域がある。また国際理解教育では、環境・開発・人権・平和の4つの柱が挙げられている。

  GPPAC(武力紛争予防のためのグローバルパートナーシップ Global Partnership for Prevention of Armed Conflict)の平和教育の部門を私と清泉女子大学の松井ケティ教授で担当している。またNARPIとも連動し、NARPIは東北アジア平和構築の担い手育成のための活動をしている。一昨年はソウルで、昨年は広島で研修会を実施している。

平和教育地球キャンペーンの日本全体の事務局は松井教授の研究室に置いてある。 

「暴力に関するセビリア声明」がユネスコから出ている。ユネスコの研究者の提言。『暴力についてのセビリア声明』より引用して若干手を加えられたものを紹介する。(デーヴィッド・アダムズ著、中川作一訳 伊藤武彦・杉田明宏編、平和文化、1996年刊行)

(1)動物は争いをするし、人間も同じ動物なので、戦争を終わらせることはできない

   ・・・・のではない。人間が作ったものだから人間が終わらせられる。

(2)戦争は人間性の一部なので終わらせることはできない・・・のではない。

(3)人間も動物も暴力的なものがよりよく生きることができ、子どもを他のものよりも多く持つことができるのだから、暴力は終わらせることができない・・・のではない。

(4)私たちの脳は(暴力的にできているので)私たちは暴力的でなければならない・・・のではない。

(5)戦争は本能によって引き起こされる・・・のではない。

 暴力をなくすことで平和な世界を創る。昨今のいじめの問題、体罰の問題、虐待の問題とも関連する。世界全体では核廃絶の問題がある。地域の安全安心の問題。家庭内暴力や動物虐待も含めてすべてがつながっている。ESD(持続可能な開発教育)のなかにはこうしたことがすべて含まれている。 

 2000年は国連が定めた平和の文化国際年で、以降、世界の子どもたちのための平和と非暴力国際10年であった。その中間点の取り組みとして、YNOY2006年に行われた世界の青年たちへの平和活動の調査)に125か国の475団体の回答があった。

 http://DECADE-CULTURE-OF-PEACE.ORG/REPORT/YOUTHREPORT.pdf 

 に資料がある。

 平和教育の活動例:

  人権;反差別教育・いじめ防止・福祉教育

  ライフスキル(人との対立をなくしていく技術);ソーシャルスキル・エンカウンター・対人援助行動

  表現;作文コンクール・標語・ポスター

  行事;修学旅行・平和博物館・聞き取り

  教科;国語・社会・芸術・英語

  授業;憲法学習・メディアリテラシー・消費者教育

  学級・学校;危機管理教育・安全防災教育・動物愛護教育・学校動物飼育・選挙教育・裁判員制度啓発・不登校ひきこもり支援

  保健;麻薬覚せい剤乱用防止・禁煙教育・エイズ予防

 ベティ・リアドン(『戦争をなくすための平和教育』の著者)にこのチャートを見せたところ、政治に関するアクションが少ないというコメントだった。市民教育は既存の社会を構成する市民を育てるということであり、より変革のためのアドボカシー(はたらきかけ)が必要になっている。

  対立・紛争解決の教育(Conflict Resolution Education)が盛んになっている。北米では紛争解決教育が平和教育のようである。

 カナダの人格形成教育(character education)では、道徳教育として:人格教育・文化教育・地域共同体の世話(相互に支えあうコミュニティ)・平和教育・社会的行動・正義に基づく地域共同体・道徳的な探求が挙げられている。 

 ESDと関連して、日本では以下の領域があげられている。ユネスコSchool Mex Japan: 持続可能な開発教育の基本的取り組み=持続可能な開発に必要な知識・価値観・行動を含み、最後に教育は人々をつなげている。その教育の種類:エネルギー教育・環境教育・文化教育・国際理解教育・その他の関連分野として領域があげられる。

 イスラエルが分離壁の建設を進めている。しかし、人と人を分かつ壁をなくすことこそが政府の仕事である。

“I believe education is the fundamental method of social progress and reform.” John Dewy

「教育は社会の進歩と改革の基本的な方法であると私は信じている」というジョン・デューイの言葉で締めくくりたい。

配布資料説明:

1 平和博物館ネットワーク紹介 ヨーロッパにはレジスタンス博物館が多い。日本には平和博物館が多い。それをつないでいくネットワークがある。

2 JEARNは小中高の国際交流促進のための団体で、さまざまなプロジェクトがあり、そのなかに「まちんとプロジェクト」という広島の原爆で亡くなった幼い女の子の話(松谷みよ子著)を読んで、世界中の子どもたちが平和のための話を書くプロジェクトもある。

3 アンネ・フランク展の紹介 オランダのアンネ・フランク財団から送られてきた展示用パネルがあるので、JEARNの関連の取り組みとして、活用してもらえる団体を探している。

 

布川弘「フクシマといじめ」

 内部被曝という視点から8月6日以降の広島をもう一度見直そうとしている。一例だけあげるとすれば、似島という島に原爆で亡くなった人が大勢埋められていた。1947年に大量に見つかった遺体が遺棄された。なぜ遺棄されたか。墓堀人夫を雇って埋葬しようとしたが、遺体に近づくと病気になるということで人夫が逃げていった。その結果遺体が放置された。被爆した遺体から放射線が出ていた。194586日午後から救済活動は始まっていた。その救済活動は相当な放射線量のなかで行われていたはず。それを広島の人びとはどのように社会的に受けとめてきたのかを研究している。また、大学での教育の実践から感じたことを紹介して話題提供したい。 

 フクシマの声:復興のかけ声・見て見ない振りをする・暴力による抑圧をあげる。福島で除染活動を自主的にしている人に大学に来ていただいて福島の現状がどうなっているかをお話いただいた。ショッキングだったことは大学の先生を中心として、かなり「全体として放射能の影響はない」、大丈夫だという宣伝がなされているということ。なかったことにしようという動きがある。大学の先生が「放射線の影響はない」と言うので「根拠はあるのか。」と聞いたら、その先生は答えられなかった。その日夜中の1時か2時に脅迫電話がかかってきた。その後、毎日脅迫電話がかかってきた。復興という非常に大きなかけ声のもとに、見て見ぬふりをするという状況がある。あるいは見て見ぬふりをせざるを得ない状況が生まれている。明らかに暴力による抑圧といえる。

 広島でも同じことがあった。45年の96日にファーレル准将が残留放射線の問題はないと発言してから、残留放射線や内部被曝の問題はないとして復興が進められていった。49年に広島平和都市法ができて、復興へ進んでいった。福島の状況とかぶっている。これでいいのか。どうわれわれが対応していくべきなのか。教育の現場でどうそれに向かっていくべきなのか。強い問題意識を持っている。

  国立教育研究所が最近発表したデータでは小中学生の8割がいじめに関与している。(加害者も被害者も含めて)非常に深刻な事態。他人が信じられない状況が生まれている。平和教育にとって極めて由々しき事態といえる。自分がいつ被害者になるかわからない。見て見ぬふりをせざるを得ない状況。どう対応していくべきかが学校生活のなかで圧倒的な比重を占めているのではないか。福島でも思考停止状態、いじめでも「考えるな」という状態となる。

  学生に見られる例として、ゼミでコメントしたら、『先生、考えすぎじゃないですか。そんなに深く考えないでもっと簡単に割り切ったほうがいいんじゃないですか.』と言う学生がいて驚いた。考えることが面倒くさいことになってきているのではないか。

  別の学生の例として、卒論を書き終えて、「これで私は勉強しなくてよくなったんです」と言う学生。話を聞くと受験勉強で苦労して、大学に入ってからも勉強が難行苦行になっていたという。これは問題ではないか。

  いじめの問題と考えあわせてみると、教育学者の佐藤学先生が「学びからの逃走」と言われている状況ではないか。得意科目と好きな科目が違うという学生もいる。数学が嫌いだけど数学が得意というのは、やはり学びが苦行になっていて、苦しくてもやっていれば得意にはなるという感覚のようだ。

  この問題にも、福島の問題にも、いじめの問題にも見られる、この思考停止状態をどうやって克服するかが一番大きな問題ではないか。平和教育というより教育全体の問題だと言われればそれまでだが、楽しい経験から学びはどういう風に創造されるのかを考えなければならない。おそらくそれは仲間を信頼できるということが前提

でないとできない。そして競争が一番よくないのではないか?子どもたちの世界に競争を持ち込むのが最大の害ではないだろうか。どうやって競争しないでやっていくかというところに未来があるのではないか。

  最近一番成功しているのはカリキュラムのない学校だ。自分がやりたいと思ったところから学ぶ。これが自分にとって一番面白いものだと感じて学ぶととてもよく主体的に学ぶことができる。カリキュラムをどれだけ自由にするかが鍵となる。楽しい経験としての学びが創造できるか。平和教育が学びになるか。強制・暴力による学び「勉強」からの訣別が必要ではないか。今の社会が救われる道はそこになるのではないだろうか。

 

アーサー・ビナード「平和の利用法」

[準備中]

 

スティーブン・リーパー「差別といじめは戦争文化そのもの」

  僕は、平和学者ではなく、活動家なので、何も言うことはないだろうと思っていたが、この3人に刺激されて、少なくとも1時間ぐらいはいただきたいと思うようになった。まず、赤松さんと淺川先生と平和教育地球キャンペーンに対して御礼を申し上げたい。これは、本当に素晴らしい場面だと思っている。広島は、「原爆は非人道的」「核兵器は悪い」「戦争は悲惨」そして「戦争よりも平和の方がいい」というメッセージを非常によく、強く伝えていると思うが、戦争より平和の方がいいというのであれば、その次のステップ、そのために人間の意識をどのように変えればいいか、あるいは社会の政治的・経済的制度をどう変えればいいか、どうすれば戦争を避けて、平和を保つことができるかというようなことは、ほとんど言っていない。しかし、今日、そういう場面になっている。3人とも、平和についてただ聴くだけでなく、平和は何なのか考えなければいけないと、そういうことを考える場面になってきていることは、非常に有難いと思う。

 いくつか刺激されて、言いたいことが出てきたが、平和教育の役割として2つの大事な側面があると思っている。1つはまず、戦争や戦争文化と闘う必要性を教えること。もう1つは平和を推進すること。平和文化を開発し、模索し、発展させることだ。平和文化とは何なのかを深く考えて、それをたくさんの子どもに教えることは非常に大事だと思う。平和的な気持ち、すべての人間を愛する、すべての人間が幸せになればいいという気持ちを持つことを教えることは当然だと思う。ところが現実には、戦争文化が蔓延していて、戦争文化を進めようとしている人たちがたくさんいて、その人たちを倒さなければ、平和に勝つチャンスはない。この2つは矛盾していると思うし、平和文化には勝ち負けという言葉もふさわしくないと思う。そもそも、平和が大切だと考えている人たちは、平和的だから闘いたくない。しかし、戦争文化と闘うことから目をそらしてはいけないと思う。

 今、アーサーさんは、キング牧師の話をしたが、キング牧師は「相手を愛せよ」そして「尊敬せよ」「絶対、暴力を使ってはいけない」という平和的な哲学に基づいて動いていたが、いつも、どこで闘えるかというチャンスを探していた。何をすれば白人が困るか、どうすれば白人が人種差別法は間違っているということに気づくか、というようなことを絶えず考えていた。ガンジーもそうだ。ガンジーは全く非暴力で、非常に深いところでイギリス人を愛していたが、それでもどこで、どのような形でイギリスと闘えるかをいつも探していた。平和は政治的ではないと言う人がいるが、本当は平和は大変政治的だ。それから逃げないほうがいいと思う。平和が勝つ必要がある。もちろん、平和文化では、「勝つ」という発想そのものは古い。勝つために話し合いとか交渉をするというのは紛争解決ではない。みんな幸せになるために、どうすればいいかを考えるようにならないといけないのだが、人間はそこまで進化していない。今は、平和が勝たないと人類に未来はない。それをきっちり頭に入れる必要があると思う。

 そしてもう1つ言っておきたいことは、広島の若い世代、大体10代、20代の人は、「平和はつまらない」と思っていることだ。平和アレルギーというのもよく聞く。それは、ずっと1年生の時から、平和は折り鶴とか、被爆者の体験談とか、戦争の暗い話などあまり聞きたくないような話を何回も繰り返して聞いているから、平和は楽しいとか、平和のために闘うこととか、そのようなことを学ぶことができていない。そして今、一番教えないといけないことは、平和がなければ人間は自滅するということ。しかも、時間があまり残されていないということ。本当に戦争文化から平和文化への卒業ができなければ、この20年、30年、もしかしたら40年、50年の内かも知れないが、今世紀で人類は消えていくだろう。今の子どもたちが次世代へとつなぐ時間がなくなるだろう。これには、多くの理由があるが、石油などの資源がなくなる、温暖化、海の酸性化、そして経済破綻、いろいろな理由で人類は自滅の一歩手前に来ている。だから平和を学ぶということは、人間の存続を学ぶということ。それを教えなければならない。平和や核兵器を学ぶことは、人類の未来を考えること。若い人に「これは皆さんの将来の話ですよ」と強く言う必要があると思う。コンピューターゲームでゲームオーバーだったらもう1度始めることができるけれども、われわれにはやり直しはできない。これは、右翼・左翼とかという政治的な話でもなく、全然次元が違う人間がこの惑星に住めるかどうか、という問題だ。それを今、教える必要があるのではないかと強く思う。

 もう1つ、布川さんの話から刺激を受けて考えていたのだが、森瀧市郎さんは―これは平和文化・戦争文化とつながると思うが―彼は「原爆の本当の意味は、力の文明の終わり、愛の文明の始まり」と言った。それは何なのかを今から説明しようと思ったら、本当に1時間半ぐらい欲しいと思うが。とにかく愛の文明のもとで、人は愛することを勉強するということだ。今の制度では、子どもに愛することを勉強しなさいとは言えない。ほとんどみんな「恐れ」、あるいは「力」によって勉強させられている。それで、勉強したいという気持ちがどのようなものなのか、ということがわかっていない。

 僕の息子はアメリカである学校を創っている。その学校の一番大事な原理は、子どもが勉強したいことを勉強させること。幼い子は何を学びたいかすぐわかる。「はい、わかった」「これを勉強したい」と。もう少し年上の子どもがこの学校に入ってきたら、受け身の状態を乗り越えるのは非常に大変。3年生でも、もう完全に受け身になっていて、自分が何を勉強したいかがわかっていない。だから待たないといけない。その子が何か勉強したいと思うようになるまで待たないといけないというのが、彼の学校の原理となっている。

 愛の文明、平和文化の中でそういう教育ができなければ、もう人類に将来はないだろうと思っている。われわれは本当に自分からやりたい、これは本当に素晴らしいことだから勉強したい、そういう気持ちがなければ、何のために生きていくのか。今の教育の制度はもう長く続かないと思う。今の教育は工場方式で、人間は材料で、その材料が工場で加工され、均一な製品が出てくるというような発想であり、これはもうアメリカで崩壊している。アトランタの公立学校の落ちこぼれ率は、5割以上になって来ている。もうアメリカの教育制度、全部ではないが、大都市では、そういう教育はもう崩壊している。日本では、そういう工場方式を得意としている民族だからまだ崩壊していないが、じきに崩壊すると思う。だから本当に一人ひとりが何をしたいか、何を勉強したいかを引き出すことがとても大事になる。それが平和教育ではないかと思っている。