『ものがたりのあるミュージアム』
アンネ・フランクパネル展・リーフレット
1)パネル展概要
1933年以降、世界的不況の中でファシズムが台頭し、ドイツではヒトラーが政権をにぎり、ユダヤ人*に対する弾圧政策を行いました。
アンネ・フランクはその中で命を失った数百万の犠牲者の中の一人です。このパネル展では、34枚のパネルに当時の世界の情勢と共に、アンネ・フランク一家や周りの人々が迎えた運命の真実を伝えています。現代の人々が平和でよりよい社会を創りだせるようにと願い巡回しています。
2)アンネ・フランクと隠れ家の住人たちの生涯
アンネ・フランクは1929年6月12日にドイツの裕福な家庭で生まれました。しかしドイツでのユダヤ人狩りが始まり、一家は難を逃れるためオランダのアムステルダムへ移住しました。しかしその後ドイツはポーランド、オランダ、ベルギーにも進駐。アンネの姉、マルゴーにもナチスからの呼び出し状が届き、一家は密かに隠れ家へ移り住みます。アンネの父、オットー・フランクは一人でも多くのユダヤ人を救うため、隠れ家にヘルマン一家3人と、フリッツ・フェファーを受け入れ、共同生活が始まりました。
アンネ達が暮らした隠れ家は二重構造で外からはわからないようになっていました。隠れ家に通じるドアは本棚で隠されていました。彼らの生活をミープ・ヒースら4人が支えていました。アンネは日記帳に隠れ家での生活をこう綴っています。
「絶対に外に出られないってこと、これがどれだけ息苦しいものか、とても言葉には言い表せません。でも反面、見つかって銃殺されるというのもやはりとても恐ろしい。」しかし、彼らの隠れ家も他者の密告のために発覚し、1944年8月4日、隠れ家の8人は連行されました。アンネ達はヴェステルボルグの収容所から、アウシュビッツ強制収容所へ、荷物用の貨車で移送されました。強制収容所ではナチスによる大量虐殺と、過酷な労働、飢えや寒さ、伝染病などで多くの人々が命を落としました。
さらにアンネとマルゴーは、母のエディートとも引き離され、ベルゲン・ベルゼンの強制収容所へ移送されました。二人は疫病のチフスにかかり、姉のマーゴットは1945年3月に、アンネはその数日後に命を落としました。その収容所が解放されるわずか数週間前のことでした。隠れ家に住んでいた他の人たちも皆収容所で命を落としましたが、オットー氏だけは病院にいた所をソ連の解放軍に助けられ、1945年6月アムステルダムに帰還しました。収容所で一家がばらばらにされてから、はじめて皆の消息を知り愕然とするオットー氏に、アンネの日記帳が手渡されました。隠れ家発覚後、家財道具は没収されましたが、唯一アンネの日記だけは奇跡的に残され、ミープらが大切に保存していたのでした。彼はその日記により、アンネがジャーナリストか作家になりたかったという夢と、彼女の隠れ家での生活を綴った日記を終戦後に公開したかった意思をくみ取り日記を刊行することに生涯を捧げました。
こうして「アンネの日記」は世界中に広まり、人々に戦争の恐ろしさとおろかさ、そして民族・人種差別問題などを考えさせる重要なてだてとなったのです。
「私の望みは周りのみんなに役立ち、喜びを与えること。死んでからもなお生き続けること。いつの日かジャーナリストか作家になれるでしょうか。ぜひそうなりたい。なぜなら書くことによって新たにすべてを把握しなおすことができるからです。私の理念、私の理想、私の夢ことごとくを。」(アンネの日記より)
*リーフレットのなかでは一般的な「「ユダヤ人」という表記を踏襲しました。ただし、ユダヤの人びと(ユダヤ者とも言う)は、ユダヤ教徒か、かつてユダヤ教徒だった先祖をもつ人びととの理解が正確なので付記します。
[ Anne Page ]