日本ハーグ平和アピール平和教育地球キャンペーン(GCPEJ)

2002年3月22日・清泉女子大学にて

平和の文化と人権、ジェンダーの課題
ベティ・リアドン(Betty, Reardon)

   日本に来るのはいつもとても楽しみなのです。ただ、そのたびにいつも、自分の周りで話されている、皆さん方の言葉がわからないということは、残念に思うの です。
 本日と明日、2つのセッションが予定されており、1つめのテーマに入る前に、地球キャンペーンについてお話をしておきたいと思います。地球キャンペーン の最近の到達段階についてですが、お手元に近々刊行される『戦争をなくすための教育』のチラシがあると思います。『戦争をなくすための教育』は、キャン ペーンの重要な取り組みの1つになっている教員養成や教師研修のためのいわば、マニュアルです。地域での、また地域を越えて大学が協同するシステムを構築 する努力を続けてきました。このキャンペーンでは教員養成や教師研修についてネットワークをつくり、これまでの平和教育および教員養成や教師研修の取り組 みを結びつける回路にしようというものです。
 大学を拠点とする平和教育センターをつくることがその1つです。現在、こちらの清泉女子大学の地球市民学科とレバンノンのビブロスにあるレバノンアメリ カン大学とコロンビア大学ティーチーズカレッジの3つのセンターがあり、ほかに4つほどが準備段階にあります。インドでは現在、女性研究のセンターが平和 教育をジェンダーの視点から追求しています。
 今度、中東に行きますが、いくつもの大学が連携して平和教育の教員研修を、さらに教員養成の段階でも平和教育を位置づけるということをすすめています。 ヨーロッパではEUの後援によって同様の計画がすすめられており、中東での取り組みはそのひな形になると思います。個々の大学でのそれぞれの研究・教育活 動を連携を図り、リソースを有効に活用することができれば、このようなコンソーシアム(協同)によって学生のためにも豊かな教育環境、より包括的な教育内 容を用意できることになります。明日、その内容についてお話するつもりです。
 平和の文化と人権、ジェンダーという3つのテーマが設定されていますが、その3つを結びつけるのはグローバルな社会変革のための学習なのです。まず、教 員やファシリテーターといった人々が平和の文化という概念を理解していただくことが大切です。しかし、平和の文化という特定の概念があるかどうかを考えて おかなければなりません。時には平和の文化が定義されたものとして語られることもありますが、そうではなくて平和の文化は創造的なものです。平和の文化と 人権、ジェンダーは相互に関連する概念であり、また、平和の文化をつくる取り組みはプロセスであることが根本にあります。平和の文化をつくるということ は、学習者が参加によって、自らの社 会、生活から引きだされる学びであるのです。
 この3つは平和教育の基本的な概念で、意識化のプロセスであり、新しい手だてをつくっていきます。人権はコンテステーション (contestation)、公正や正義というフレームワークのもとで異なった意見を理解するプロセスです。ジェンダー、あるいはジェンダーにもとづく ものの見方は関係や振る舞いを変えていくプロセスです。意識化、コンテステーション、行動変容という3つは平和を学ぶ核心です。平和の文化という概念に よって平和教育のさまざまなアプローチを統合し、包括的かつ体系的な教育を構成することができるのです。平和の文化の構築にむけて連携し、多元的な展開が 可能になるのです。ジェンダーには実践的かつ包括的、かつホリスティックに平和教育をすすめる可能性があります。また、ジェンダーには価値や規範に関わる 側面 があります。
 ジェンダーやエコロジーは特定な課題です。伝統的なあり方を尊重しつつ、公正や平等といった人権概念をとらえ直して、平和の文化の構築にむけて実践する ことになります。そこには普遍性と多様性とのディレンマがあります。エコロジーを考える時、健全であるという普遍的な状態は多様性がもとになるわけです。 これまでの私たちの自然に対するあり方を変えることが求められますし、ジェンダーにあってはジェンダー役割、伝統的な慣習を変えることへの論争を生みま す。伝統的な世界観への抵抗とでもいえるものです。ジェンダーによって社会や地球との暮らし方が規定されている状況を、より多様な選択をつくりだすように 転換するということです。
 世界でさまざまな女性運動や環境問題への運動が展開されているのは、とても意義のあることです。現在、人々が抑圧され、周辺化されているという状況の中 で、誰が政策決定からはずされているかということが重要な問題になります。女性やまずしい人々、先住民あるいは地球そのものが疎外されているわけです。伝 統への抵抗は、女性問題にしろ環境問題にしろ、どのようにこれまでの社会秩序がどのように構成されたのか見直すことに意義があります。女性と男性のちがい は機能的なものであり、差別的なものではないはずです。人間と地球とは、搾取でなく相互補完であるという立場なのです。ジェンダーとエコロジーを考えた 時、とくにジェンダーはより日常的であり、ホリスティクな包括的平和教育の実践的課題になるわけです。現代はすべてが細分化されていてしまっているのです が、世界を相互関連の視点からとらえ直さなければなりません。そのことがより豊かな文化、社会を形成することにつながるのです。これは変容的(トランス フォーメーション)教育とでも呼ぶことができると思います。
 過去、歴史における大転換がありました。200年から300年前からいくつもの革命がありましたが、それは歴史を分断するものであったように思います。 近代において人権概念もつくられてきましたが、人権をふみにじるような歴史もありました。しかし、本来、変容(トランスフォーメーション)は非暴力で有機 的なプロセスであり、関係にもとづくものなのです。変化にむかうポジティブな種は、自らの伝統の中にあるものです。そうした種を平和の文化に育てていくべ きです。例えば、米国が民主主義を他に押しつけるものではないのです。変容はエコロジカルなものです、エコロジカルな思考、生活のあり方は変容を目指す学 習によってなされ、つくられていきます。そのためには学習こそが核心部分をなすものです。個人も、社会も学習主体となり、社会そのものが学習をし、変化を していくわけです。そこに希望があります。教育者は変化の担い手です。その際、学習のあり方が重要です。学校やNGOにおいて、教育活動はインストラク ティブなものから、エデュケートするというモード、つまり学習者や社会から学びを引きだすように学習様式を変えることが必要です。
 意識化し、他を理解し、行動を変えていくという3つのことに戻りますが、それをどのように教育の中で実践するかです。それは世界がどのようであるかを教 えるということだけではなく、どのように行動するかという教育なのです。
 ジェンダーと、対立(コンフリクト)に関わる例をあげれば、対立や争い対してエコロジカルな見方を持つこと、コンフリクトに対してプロセス志向であるこ となのです。国家や女性・男性に関わるコンフリクトは悪いものではなく、健全な対立の扱いが必要なのです。多文化教育においても多様な世界観を共有するこ と、人権の実現が目標にあります。異文化コミュニケーションは言語の問題ばかりでなく、文化の問題です。また、パワーを実践するという政治の課題は構造を 変革することでもあり、も経験から学ぶ課題の1つです。環境のことでいえば、私たちはこの地球に共に生きているわけで、資源や伝染病さえも共有していま す。ジェンダーと自然、さらに政治構造をつなげて考えなければなりません。
 私たちはジェンダーの経験、ジェンダー役割によって影響を受けています。この経験は共通の文化なのです。女性学によって、近年ではジェンダー研究によっ て男性性の研究がすすんでいます。男性・女性の文化的・社会的役割また男性性という概念が男性・女性双方にダメージを与えているのです。社会の期待にこた えようと男が血を流す戦争をするといったようなことが、その例です。モラル的に疎外をする、相手と自分は違うので疎外するという価値・規範を子どもは知ら ず知らずに身につけてしまっているのです。子どもたちは、ジェンダーや民族差別を、学んでしまいます。しかし、きちんとジェンダーを学ぶことは、多様性を 持つこと、個人の健康と社会の健康を同様に保障すること、他者と競争するのではなくパートナーシップを持つことを学ぶことです。対立・競合するのではな く、男性・女性、南・北、地球と私の関係を回復することです。ジェンダーの経験を通して、他者、自分たちとは異なる者の視点を持つことです。ここに新しい パートナーシップのエネルギーがあると思います。変化は可能だという希望です。文化はダイナミックで、変化は不断のプロセスなのです。人間は暴力的であ り、人間は戦うのは避けられないという言い方や父権制の考え方では、一方がまさっていて、他方が劣っているという考え方となり、女性を排除し、女性のもの の見方を欠いて、人類の可能性を削いでしまっているわけです。
 ジェンダーに対する市民的見解が求められます。ジェンダー役割と社会や技術とは密接に関係しています。100年前の社会では農業が中心だったわけで、そ の社会では女性も畑にでていました。現在、米国では男性が農業をし、女性は家庭の仕事をするという構造がありますが、以前はそうではなかったわけです。ア フリカでも産業の変化により役割が変わってきています。アフリカでは女性が農業をしていますが、機械化によってその仕事を女性から男性が奪ってしまうとい う状況もあるのです。一方で情報技術によってより平等が可能になっています。このような歴史を踏まえておかなければなりません。また、男性を子育てから排 除し、女性を政策決定から排除するというのは、社会にとって大きな損失です。平和問題、国連の安全保障理事会おいても女性の参画が必要だと決められていま す。女性も男性もともに人間らしさを取り戻すことが求められます。
 普遍化は単一化ではありません。普遍化は、人間としての権利を実現することなのです。地球における資源へのアクセスも平等に保障されるものでなければな りません。教育者としてこのような可能性を理解し、参加を可能にするスキルを学び、参加型の学びをとおして変革を実現する教育をつくっていかなければなら ないのです。