インドの民衆と原発―フクシマからのインパクト

ケイト・ストロネル(デリー・ジャワハーラルネールー大学(JNU) 博士課程):

2013年6月29日報告より。出典:"NO Echoes Koodankulam" by Anitha Sharma

http://www.dianuke.org/echoes-of-koodankulam-women/


クダンクルムの子どもらの声から

 

テレビに映し出された福島での惨劇と、試験運転で黄色いドームから聞こえた爆発音、この2つの出来事は、とてつもない衝撃と恐怖を、私たちにもたらしました。まさに自分たちは、クダンクラム原発の間近にいる、という現実に気づかされたのです。わずか900メートルしかはなれていないところに、2000人以上が住んでいます。移住した当初、私は、私の父が近所の人たちと、条件付で所有権をこの施設に与えた、と話しているのを聞いたのを覚えています。緊急の場合には、私たちはすぐに、その場所から避難しなければならないと、譲渡証書には書いてあります。  ところで、緊急事態とは何であるか、まったく定義されていないのはおかしいと、父は疑問をもちました。そして、父と父の友人らは、クダンクラム原発当局に対して、緊急事態とは、災害や事故をも意味するものなのか、きびしく追求してきました。さらに、海からのもたらされる津波が、事故を誘発するものとして想定されているかどうかも、問わなければなりません。福島の映像は、つらいものですが、緊急事態とは何かをあきらかにしてくれたといえるでしょう。

 

今、私たちの権利が奪われています。イディンサカライの子は、過去1年、またそれ以上の期間、子どもとしての権利が奪われ、生活が脅かされています。自分が生まれた所なのに、自由に歩いたり、遊んだりする権利が、否定されているのです。平和的におこなわれている抗議行動にたいして、9月10日以来、警察は、武力を使って、とても強引で、ひどい攻撃をするようになりました。なので、怖くて、自由に遊んだり、出歩いたりすることが、できなくなってしまったのです。

 誰にでもある、教育を受ける権利が脅かされています。学校に行こともできなくなっています。3月初旬に最初の警察による攻撃がなされたとき、公共交通機関が当局によって、封鎖されたため、子どもたちは、とても長い距離を歩いて学校に行かなければならなくなってしまいました。また、多くの学生が試験を受けることもできませんでした。

 安全や、両親と愛する人たちとともに、幸せを得るという子どもの権利も奪われました。警察によって、両親が連行され、とりのこされた小さな子どもがいます。その子たちの恐怖や不安は、はかりしれません。

 さらに、言葉や身体的、精神的な虐待から保護されるという権利も侵害されています。私たちが、その日、どのように浜から追い出されたのか、そのやり方はけっして記憶から消し去ることはできないでしょう。 鼻に怪我をさせられた6歳のロビン君の姿は、この目に焼き付いています。私はその日、教会で両親や家族と再会するまで、ひどい絶望感にありました。いまだに、多くの人たちが、男の人も女の人も、警察によって連れ去られたまま、安否確認もできない状態にあります。

 

私は、イディンサカライ村にいるたくさんの女性の一人にすぎません。私は学校で勉強したこともないし、学位を取得したこともありません。しかし、原子力発電と原子力産業に関係している、あらゆることが腐敗し、または適正ではない、とわかるのに十分な常識は、持っています。ウランを採掘するところから、発電所に至るまでの道は、まさに、たくさんの涙と恐怖で舗装され、苦痛と苦悩とともに、嘘と詐欺行為にまみれているのです。そこから生まれたものは、けっして「クリーン」だと言えるはずのないことは、誰の目から見てもあきらかなのです。

 

私はお金や富を求めてはいません。私は、健康で平和で、幸せに暮らせることができたら十分なのです。自分が生まれ、祖先が眠っている、この海辺の村で暮らし、死んでいくことが望みなのです。ご飯をつくって食べること、男たちと若者らが、海に行くのを見守り、かれらがとった魚を売ること、仲のよい人たちとご飯を一緒に食べたり、結婚式やお祭りに行ったり、たまにあたらしい服を買うのが、ささやかな喜びです。ただそうした幸せが、ほしいだけなのです。もちろん、道路が整備され、バスが便利になり、学校や病院が建設されるなど、そのような開発は、あってもよいと思います。清潔な水があり、電気の供給がより安定して、なされるようになれば、私たちの生活は楽になるでしょう。しかし、そうしたことは国の財政を赤字にさせるほどのものではないはずなのです。国家は、エネルギー予算として、まったく必要ないものに膨大な経費を払っているのだと思います。村のまわりには、風力発電のたくさんの風車があり、何ヶ月分もの十分な電力をつくることができています。また自然の大いなる恵みである太陽光をエネルギーとして利用することもできます。これらすべて、神によって私たちに無償で与えらたものです。しかし、人間がこれらを所有しているわけではありません。私たちはそれに値札をつけることはできないのです。